「小林よしのり」という名前と、彼が創作したらしい「ゴーマニズム」という奇妙な言葉は新聞の書籍雑誌広告欄で目にし、主として劇画を描いているらしいことは知っていた。
それだけだ。どんなタイプの劇画かも知らない。
「ゴーマニズム」が「傲慢+ism」であることは一目でわかるが、この種の悪趣味な造語は私の最も嫌うところなので、この人物の著書は表紙も見たことがない。
ところが、ほんの数日前、薦められて
日中戦争の中の青春
===== 日中戦争時代
――戦場の中国で若きスパイとなった男の、せつない物語 =====
元中支派遣陸軍特務機関員 中谷 孝 87歳
にアクセスし、「小林よしのり」の正体を知って大きなショックを受けた。
戦争反対や世界平和を叫ぶものは戦場に立つ勇気の無い臆病者だ。大東亜戦争は正義の戦いだった。特攻隊は立派だった。今の日本人も国の為に命を捨てる覚悟を持て。勝っている戦争はかっこいい。
このサイト―「ネット書籍」と呼ぶべきか―の筆者「中谷 孝」氏は“劇画『戦争論』への反論”と題する章の冒頭でこの一文を紹介し、1998年6月に初版が刊行された「小林よしのり」の劇画『戦争論』の要点の一つ一つを論破している。
Amazonで調べてみると、こうした「大東亜戦争賛美」「特攻隊賛美」「戦争賛美」を連ねた『戦争論』は一大ロングセラーになっており、続編も出ている。現代日本社会に受け入れられているのだ。
著者の「小林よしのり」が「中谷 孝」氏と同年代か、あるいは年長であれば理解できなくもない。破れた夢なのだから。
しかし「小林よしのり」は1953年生まれである。敗戦から8年も経ってから生まれた男だ。焼夷弾も機銃掃射も、そして米軍による占領も見ていない。飢餓も知らない。だからこういう妄言を著書に綴ることができるのだ。
現代日本社会では言論、表現の自由が保障されている。少なくとも、そういう建前になっている。だから何を書こうが、どんな本を出そうが許されることになっている。
怖いのは、私が寒気を禁じ得ず肌に鳥肌が立つのは、こういう妄言が広く受け入れられているらしいことである。
そして私が数年来抱いてきた疑問が解けたのである。最初は高校生ぐらいの子どもたち、やがて20代、30代と年齢が上昇し、今では私と同年代にも「大東亜戦争賛美」「特攻隊賛美」「戦争賛美」を口にし、文字に表す人の数が増えている。その源は「ゴーマニズム」、「よしのり本」だったのだ。
私と同年代にまで「ゴーマニズム」信者が広がっていることに疑いを持たれる向きもあるかも知れない。実は、戦時中にもかかわらず米軍機が上空を飛ぶことすらなかった土地が沢山あるのである。私が5年生から高校卒業まで暮らした金沢もその一つだ。ずっと金沢で過ごしてきた連中に私が受けた機銃掃射や爆撃の話をしても信じてくれなかった。だから彼等の中に『戦争論』信者が生まれても不思議はない。本物の銃弾や砲弾が自分をめがけて飛んでくる恐怖を想像することすらできない連中だ。
こうした「ゴーマニズム信仰」「よしのり信仰」の蔓延を見ると、自衛隊の演習場へ「よしのり」を連れて行き、着弾地点に立たせてみたくなる。それでも妄言を吐き続けるかどうか。
しかし、一歩引いて周囲を見渡してみると、たとえば40年前の日本とは比べようもない暗さに慄然とする。前途に希望の灯りはチラッとも見えない。結果として嫉み僻みがジワジワと湧き上がる。「逃切世代」だの「学級崩壊世代」だのと世代間の悪口の応酬で鬱憤を晴らしているように見える。
だからといって、僅か60年ぐらい前に解放されたばかりの残虐な世界に戻る理由がどこにあるのか。妄言に踊らされてあの恐怖を再び味あわなければならない理由がどこにあるのか。自分だけの空想に浸るのは止しなさい。
あの時代の恐ろしさ、惨めさは「
日中戦争の中の青春」と「
戦争を知らない世代の皆様へ」に体験として語られている。
参考:
「中学生の満州敗戦日記」(今井和也、岩波ジュニア新書)で780円(+税)
>考えてみると、もともと日本の軍隊には「国民をまもる」という発想はないようだ。
(中略)
そもそも戦争とは国民の生命と引きかえに国益を獲得しようとする国家事業なのだから、戦争を始めた国に生命の保障を求めるのは無理な話かもしれない。(p.28~29)
イージス艦「あたご」の衝突事件に関して同じような意見が聞かれましたが、あの事件の時、この本は既に脱稿しています。