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業界の一部では死んだことになってるそうですが


by Count_Basie_Band
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ナベ烏帽子

高校時代、多分「国語」の時間に「鍋取公家」という言葉を教わった。「貧乏公家」の蔑称だそうだ。「鍋」とは貧しい公家が被る冠(烏帽子)のことだと聞いた。

近年の日本の政治を見ていてふと思い出した。
今の大臣たちは皆「鍋取公家」という表現がふさわしい。
「ナベツネ」のご機嫌次第で身分権限が左右されるのだから、これ以上ピッタリの表現はないのではないかと思う。

その「ナベツネ」の政界における経歴についてWikipediaは「要出典」との注釈付きだが以下のように記述している。
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東京大学文学部を卒業して「読売新聞社」に入社。『週刊読売』(現『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。警視庁出身の社長正力松太郎の目にかなって、自民党党人派の大物大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[1]。渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁や衆議院議長ポスト獲得の交渉の代行、自民党の政治家のゴーストライターとして週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[要出典]。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[2]。大野の死後は中曽根康弘と親密になり、今日でもその親密ぶりはよく知られている[3]。1966年の国有地払い下げ問題での暗躍は、田中角栄をして「あいつはただ書くだけの奴じゃないんだな」と舌を巻かせるほど壮絶なものであった[4]。

1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞』社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邊の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜して行く。同年、取締役論説委員長に就任した。1984年からの元旦社説は自ら執筆した。
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このジイサン、先日亡くなったばかりのオスカー・ピーターソンより1年若いだけ。81歳だ。ピーターソンも晩年は片手しか使えず、本人もファンも昔の録音を楽しむだけになっていたのだが、ナベツネも同じようなモンだろう。いまの日本人の生活や国際問題を理解できているとは思えない。ボロボロの、穴だらけの烏帽子だ。
それでも「公家」共の頭の上に乗っている。利用する「鍋取公家」がいるからだ。

さて、この烏帽子が「燃えるゴミ」(自治体によっては「燃やすゴミ」)になったときに何が起きるか。

心配している人は心配しているだろうが、私には楽しみだ。

あの「ナベ烏帽子」が消えようと、日本の世の中、たいして変わりはしない。実際に世の中を仕切っているのは「公家」たちではなく「奉行人(ブギョウニン)」どもなのだから…
by Count_Basie_Band | 2007-12-26 16:44